dan-matsu-ma

イアラー!

ビールとビールもどき

 私にとってはビールではなかった。しかし、私にとってこそビールであった。
 
 田村正和は傲慢だなあ、とずっと思っていたのだ。あのCMに出ているすべての俳優女優に対して思っていたのだ。「私にはビールです」と彼らが日本全国に向けて恥ずかしげもなくほざけるのは、ビールもどきの需要はそこにはない、という考えなど露ほども持ち合わせていないこの上ない証明である。
 私にとってそれはビールではない。今も昔もビールではない。ビールの正確な定義など分からない、調べるつもりもない、ただ、私にとってそれはビールではないのだ。最後にもう一度。私にとってビールではないのだ!

 大学時代、遊ぶ金に困り食う金に困り、発泡酒を飲みながら私は考えていた。
 いつか、ビールもどきなんて飲まないで、ちゃんと毎日ビールを飲める大人になろう、と。
 モラトリアムまっさかり、青臭く汗臭く泥臭い学生時代、それでも大人に対する憧れというのはもちろんあった。その具体的なイメージがビールに向かうところに想像力の欠陥と貧乏臭さが見え隠れしていて嫌になるが、それでも浮かぶ憧憬はこの上なく幸福であった。エビスとかプレミアムモルツとかたまに飲んで悦に入ったりして自分へのご褒美いやっほお!なんて一人叫んでいた。いや、ほんとうに幸福であったと心より思う。
 未来の自分は、冷蔵庫に毎日ビールをストックしているものだと信じて疑わなかった。
 あのころ、ほんの数年前には、何年かあとにはちゃんとしたビールを毎日飲もう、と考えていた。あれは何年前だったかもそのとき何年あとに考えていたのかももう思い出せない(ちょっとびっくりするぐらいの悪文だけれどもこれ以上に私のあのころの感情を記す術がない)。
 いつからだろうか。私にとってビールは贅沢品となってしまった。憧憬の対象と贅沢品とでは、似て非なる、あまりにも。贅沢品は贅沢でありながらも心を焦がさず、それでいて手が届かない自らの心を焼く。いつからかモラトリアムはルサンチマンへと形を変えていた。私はスーパーで麦とホップ6缶入りを手に取るときだけ心が死んでいた。お客様に怒鳴られているときも、仕事をしない上司を見ているときも、ありえないくらいのミスをしでかしたときもはっきりと意識があるのに、麦とホップを持ちながら歩く帰路の記憶だけがぼんやりとしていたのだ。被害妄想を募らせていくと、きっとどこまでもいける。私の人生は麦とホップだ。表面上はたしかにビール然として整っているように見える、だから人はこう言ってくれるのだ、「あなたはビールだよ」と、でもほんとうはビールではないことなんて自分がいちばんわかっているのだ、周りの人もわかっているのだ、それでありながら侮蔑と同情と表面上の賞賛をもってビールなんていうのだ。みんなしんでしまえ!閑話休題。とにもかくにも、ビールもどきをビールと認めた時に、私のなかの何かが死ぬ。同時に新しい自我が生まれるのだろう、それもまた幸福であろう、それでも私はまだ私でいたいのだ。
 しかし、こんなプライドだのアイデンティディだのしゃらくせえもんがいったい何になるというのだろう。私は嘘をつきつづけていた。あまりにもちっぽけな己を守るために。ほんとうはずっと分かっていたのだ。
 
 仕事から疲れて帰ってきて、金もなくてふらふらで冷蔵庫を開けた時に、キンキンに冷えた麦とホップを見つけたとき。プルトップを開けた瞬間のあの音。そしてからからに乾いた喉に黄金色の液体を滑らせる瞬間。
 私にとって、確かにそれはビールであったのだから。

 私には、(そう考えないといろいろとやりきれないから)ビールです。
 私には、(そう考えることでいろいろとやりきれるから)ビールなのです、
 でも、私が私でいるために、(たとえ本物だとおもいこむことが幸福であろうとも)ビールではないのです。

 画面に映る彼らの言葉にはこの感傷がない。てめえらにビールの何が語れるっつうねん、なあ、てめえらはロッキングチェアに座りながらギネスでも飲んでいればいいじゃん。 
 電車のモニターで田村正和がCMを降ろされたことを知った時、言いようのない焦燥感寂寥感と開放感が心を支配した。そして同時に、私は今まで麦とホップへの感情をいかに押さえつけていたのかを痛感した。たぶんほんとうはもっとまえから知っていた、仲間由紀恵が降ろされた時分くらいには。でもようやく、その感情は私の心のなかで花開いてしまったのだ。
 だから、もうやめよう、と思った。飲む量を半分にすればビールだって買える。そうだ、私はビールでないものをあえてビールではないと否定する必要などどこにもないのだ、と。

 帰りに西友に立ち寄った際、私はビール、ビール、と念じていた。たぶんいくらか口から漏れていたし、目は据わっていたとおもう。それでも構わなかった。夢を叶えるためには犠牲なんていくら払っても足りないくらいなのだから。
 ビールを求めアルコール売り場に立ち寄った私の目を奪ったのはしかし、エビスでもアサヒドライでももちろん安売りの麦とホップでもなく、6本630円という破格の値段で売られていた韓国ビールであった。
 それは紛れも無くビールであった。何度も確かめたが、確かに「発泡酒」でも「リキュール(発泡性)」でもなく、「生ビール」と表記されていた。私が呪縛から逃げ出そうと、憧憬を形にしようと決意したその日に、ビールもどきよりも安い本物がそこにはあった。

 私は帰路につきながら考えた。これは勝ちなのか負けなのか。単純に考えれば勝ちだ。なのになぜ複雑に考えたら負けのような気がするんだろう。金欠に打ち勝てるものなどあるのだろうか。それはもちろんあるに決まっている。そんなことは分かっている。しかし、私は自らがかわいく、いとおしい。そしてあまりにも哀れだからこそ、自らを愛さずにはいられないのだ。なぜ自らを愛するためには金がいるのだろう。夢を叶えたはずの私にのしかかったのは、結局どうしようもないルサンチマンであった。

 1本105円の韓国ビールはそれなりに美味しかった。私はもう西友麦とホップを買うことはないだろう、なぜならビールではないから。これが正しいはずだ。たぶん、自己啓発本(読んだことはないが)とかには、こういう成功のための正しい取捨選択とか書いているはずなんだ。

 それなのに、なぜこんなにも胸が苦しいのだろう。

2014年3月9日、自宅にて