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dan-matsu-ma

イアラー!

季節はとつぜんにすぎさり

 ああもう冬かあ、いやまだ冬やないやろ、いくらなんでもまだ秋やろ、という薄ら寒い一人ノリツッコミを、もう何年くりかえしただろうか。
 今年もサッポロビールより冬物語が発売された。例年に違わず、まだ10月だというのに。毎年、このビールを見つけるたびに、つまらない漫才師になったような気分にさせられる。

 季節の変わり目はとてもながい。たとえば6月、涼しさと蒸し暑さが交互にやってくるころに、ああ季節の変わり目だなあ、とおもうのだけれど、ああ夏だなあ、と思うのは7月も終わりにさしかかったころである。そしていまは10月、まだ夏の名残を捨てきれず、夏か秋かと迷いあぐねているうちに冬物語の襲来だ。夏か秋か冬か。晩夏であり初秋でありながら晩秋の初冬か。タイムパラドックスってこういうのをいうんじゃないのか。春夏秋冬よりも、その合間のほうがよっぽど長くて、むりやり世間から提示される季節の主張に戸惑わずにはいられない。
 まず、独り者の行動原理にあまり季節というのは関係していないのである。もちろん桜餅もスイカもサンマも寒ブリも食うけども(この四つは個人的好みによるものなので放っておいてほしい)季節感に浸ることなんてそうそうなくて、ただ世間から与えられる情報で季節を四分しているだけなのである。つまり、冬物語を飲みながら、いまを冬ではないと否定する理由なんてほんとうはなにひとつないのだ。ただ、私は自らから季節が失われるのが恐ろしいのだと思う。当たり前のように10月に冬物語を飲み、「ああもう冬かあ」なんて言い出したら人間おしまいなような気がするのだ。具体的になにがおしまいなのかはわからないが、日本人が幼少から植えつけられた風流的ななにか、生存権のひとつである文化的な生活にかかわるなにかがおしまいなのだとおもう。冬物語の発売は我々に人間とはなにかを問いかけているのではなかろうか。なにひとつ冬らしい味わいが感じられない(ただ私が貧乏舌なだけかもしれないが)ところも、この主張を裏付けているとはいえないか。 
 必死になって冬を否定したところで、電気代節約のためエアコンの付いていない部屋で毛布をかぶり冬物語を飲みながら「いいやまだ冬ではないやん」と必死に一人ノリツッコミをしている老いた自らの未来を想像し、違う憂鬱は訪れるのだけれど。
 結局のところ、「ああもう冬かあ」と一言言ったら「いやまだ冬ではないやろ」と突っ込んでくれる友人もしくは恋人ねがわくば伴侶が横にいなければ世界なんてそうそう変わらないもので、それでも季節を主張することで最低限文化的な生活を送れていると自らを慰め続けなければ自我を保てなくて、どちらにしろサッポロビール株式会社が我々の心を蝕むために冬物語の発売を10月にしていることは間違いないと思うので、もし生まれ変わってもう少し神経が太くなったら爆破予告とか、どくいり きけん のんだら しぬで 的なアレとかしたいとおもう。私が輪廻転生を迎えるまでに、サッポロビール冬物語の発売日を再考してくれることを願うのみである。

2014年10月7日 自宅にて