dan-matsu-ma

イアラー!

ときめきこそが人生か

「ときめかぬなら捨てよ」と、かの女は言った。

 その教えはものすごい勢いで全世界へ広がり、異教徒の私ですらも意識せずにはいられないほどになった。非キリスト教圏におけるクリスマスのように、もはや宗教の垣根を越え、人々を時に救い、時に陥れる。

  片付けない理由はいくらでも出てきた。仕事が忙しい、休みは寝ていたい、体調が悪い。我が家へ来るのは唯一定期的に会う友人と恋人くらいのものだ。もはや恥はなかった。しかし年の瀬、退職し久々の長期休暇、転職前、新しい自分、ブランニューワールド。 「部屋が片付かなくてもまあいい」と思っている人間はこの世に腐るほどいるが、「部屋が片付かない方がいい」と思っている人は(死体を部屋に隠しているとかでなければ)そうそういるまい。私も(死体を部屋に隠しているわけではないので)「今部屋を片付けなければ、いつ片付けるのか」と自らを鼓舞し、大掃除へ着手した。 断捨離。だんしゃり。断ち、捨て、離れるのだ。そこまでしなくてよくないか。捨離くらいでよくないか。寿司飯みたいだからダメなのか。

 

 私はゴミ屋敷の住人をどうしても笑えない。物があまりに多すぎるのだ。

 今の家に引っ越して2年。かろうじて片付いた状態と言えていたのは最初の3ヶ月くらいだっただろうか。引っ越した理由も、前の家に物が入りきらず溢れかえったからだった。漫画、小説をはじめとした本は、統一感のないふたつの本棚から溢れており、CDは歌詞カードとディスクが一致しないまま積み上げられた。よくわからないペンギンの置物が4体、豚の貯金箱が2体、スヌーピーの置物、スターマンの置物、チンプイの置物、ムーミンのぬいぐるみ。クッションは3つ、一人用の椅子もみっつ(座椅子、スツール、ソファ、さらに電子ピアノの椅子も合わせたら4つ)。服、帽子、パンツ、靴下(改めて数えたら50足くらいあった)。将棋盤(使ったことない)、モノポリー(使ったことない)、ウノに花札。トランプに至っては3セット。たくさんの酒、たくさんの皿、たくさんの非常食。めったに手紙なぞ書かないのに何故か買ってしまうレターセット。いつか使うような気がしたまま放置されている紙袋や紙箱。一人で抱えるには多すぎた。2年前、溢れかえる物の中で、片付かない原因をアパートの狭さだけに押し付け、今の家に引っ越したのだった。ちょうど会社の業績がよかったころで、珍しくボーナスが出たのがまずかった。金で解決できる状況だったのだ。ちなみに前の家と今の家は徒歩15分ほどである。馬鹿に無駄金を与えるとこうなる。ドラえもんが寝ても余りあるようなでかい押入れがついた部屋へと引っ越し、物を詰め込み、束の間の片付いた生活を楽しんだ。

 しかしなぜか、本当に理由はわからないのだがなぜか、スペースがあればそのぶん物はどんどんと増えていくもので、あっという間に新居も汚れた。家の広さに言い訳ができなくなったぶん却って知恵が働き、仕事のせいにし、体調のせいにし、挙句の果てには自らの怠惰を認めることで開き直った。掃除機をかけるときはモーゼよろしく床に散らばった物たちを押しのけた。空気清浄機を常にフル稼働させ、かろうじて人間らしい生活を保っていた。

 

 つまりまともな大掃除が引っ越し以来、約2年ぶりだった。絶望的な話だ。

 ミニマリストとは対極に立つ私はしかし、物を捨てない人間としてのプライドがあるので(そんなプライドは捨てるべきだがもちろん捨てられない)、どうしてもマニュアル本に頼るわけにはいかなかった。かの魔女が吐き捨てた「ときめかぬなら捨てよ」の一言だけが頼りだった。例の聖書は読んでいないので詳細はわからないのだが、とりあえずときめかぬ物を捨てることで人生がときめくという、単純かつ難解な理論の上に成り立っていることだけは知っていた。莫大な物の前で、取り急ぎ宗旨替えを兼ねて、ひとつひとつを手に持ちながら自らの心に語りかけた。

 

 ―――ねえ私、この子に、ときめいている?

 

 まず誤算だった(というより案の定だった)のは、思った以上にときめきがすごかったことだ。恋多き乙女の比ではない。もうディスプレイすらしていない置物や、3年は開いていないような本にもいちいちときめきをおぼえた。このままでは片付かない、と、ときめきを抱えつつも胸の鼓動がやや控えめな物をごみ袋に突っ込んだりもしたが、却って罪悪感が恋を加速させる結果となり、またごみ袋から救出してしまったりもした。

 そしてさらに、「ときめかない」という理由で物を捨てるのにもまた覚悟がいるのだ。買った時には確かにときめいていた、服や小物たち。私がいちいちときめいた結果、彼ら(無機物)は少しずつくすんでいき、ときめきを失った。私が彼ら(無機物)からときめきを奪ったのだ。しかし、私が彼ら(無機物)に確かにときめいた、あの瞬間こそが宝物ではないのか。

 ときめかなくなったらゴミなのか。あの魔女は、「ときめかなくなったから仕方ないのよ」と風呂場で夫の死体を解体したりするのか(既婚かどうかは知らんが)。

 違うだろう。ときめかなくなっても、夫婦はそうそう離れたりしないし、もちろん殺して解体したりもしない。なぜか。そこに愛があるからだ。ときめきとは無縁でも、安穏とした愛がそこにある。家族愛といってもいい。私は、もはや着なくなったTシャツに、もはやかぶらなくなったニットキャップに、もはや再読することはないであろう小説に、どこに飾ればいいかわからない置物に、使うあてもない将棋盤に、履き古したスニーカーに、なぜか買ったはんだごてに、家族としての絆を感じている。私の空虚はいつも物が埋めてくれた。彼ら(無機物)は私を救ってくれたのに、どうして私が裏切ることができよう。

 

 それでも私はゴミ袋を積みあげていった。ひとつひとつを捨てていくたびに身を切られるような思いだった。リストラを決断した社長の思いで、子を奉公へ出す母の思いで、母を山へ捨てる息子の思いで。あなたが悪いわけではない、私がすべて悪いのだ、と謝りながら。思わず目をそらしつつも、心は鬼にしてゴミ袋へ詰め込んだ。それでもどうしても捨てられない物たちがいくつもあって、最終的には押入れへと詰め込むという手段に出たものの、とりあえず外面だけは大掃除を終わらせた。ときめきは程遠く、むしろ心は乾燥しきっていた。

 彼らは無機物だから、自ら退職を申し出たり、身売りに出てくれたり、山へ帰ってくれたりはしない。いつかまた、押入れへ詰め込んだ彼らとも必ず向き合わないといけない日が来る。その日が来るまでに、血を吐きながらこんまりの著書を読むか、今よりさらに広い部屋への引っ越し費用を貯めなければならない。

 私に権力さえあれば、早々に焚書にしていたのに。

 

2017年12月27日 自宅にて