dan-matsu-ma

イアラー!

SORACHI1984はとてもおいしかったです

 私は死装束にウッドストックのバッジを付けるかもしれない。どうしてそう思ったのかというと今日丸ノ内線の新型車両に乗ったからで、そもそもビールの懸賞に当たったからだ。

 私の脳はたぶんかなりコンパクトで、三十年ぶんの記憶をつめるのにはまったく足りていなくて、そのせいか最近思考がひどくとっちらかってしまう。だからせめて、なぜこの結論に至ったかを書き残そうと思った。世界一どうでもいい備忘録だ。だが、私が生きる目的を見失わないために必要なのだ。

  健康と出っ張った腹を気にした結果、中央線の駅から二十分ほど歩いて通勤することにしているのだが、雨が降ったり怠惰が心を支配した時には、職場の最寄り駅まで行くために丸ノ内線を利用している。だが、月に十回ほど利用しているにもかかわらず、今日まで丸ノ内線の新型車両に乗ったことがなかった。二週間ほど前に一度だけ、ちょうど駅に着いた瞬間に新型車両が発車するのを見たことがあって、そのときは「あと一分早ければ新型車両に乗れたのに」と後悔したのだけれど、そんな後悔にリソースをいつまでも割けるほど悩み無き人生を送っているわけではないので、すぐに忘れてしまったのだった。
 だが、今日旧型車両に乗ろうとした瞬間、「ああ、あのときあと一分早ければ新型車両に乗れたのにな」と小さな後悔がフラッシュバックした。それはあまりにささやかすぎるトラウマで、しかもいつかは必ず乗れるであろうから解決することは約束されている。それにもかかわらず、今日は新型車両に乗らなければならない、と思ったのだ。

 

 それはそもそもサッポロビールの新商品モニター募集の懸賞に当選したせいだ。それは「発売前の“SORACHI1984”というビールをくれてやるので、アンバサダーとしてSNSでタグ付きでSORACHI1984の魅力を広めてください」というもので、サッポロ信者の私は新商品のビールが発売前に届いたのがとても嬉しかったので、これはぜひ普段活用していないSNSでわざとらしい宣伝でもしてやろうじゃねえか、と意気込んだのだった。他人から役割を与えられた、大げさに言えば「生きる目的」を与えられた気がした。それは久々の感覚で、たとえばおいしいものを食べたいとか酒を飲みたいとか、姉にもうすぐ第二子が生まれるとか、恋人と小旅行をしたいとか、友人とくだらないことを話したいとか、しばらく会っていない人に会いたいだとか、そういうのはたくさんあるけれどもあくまで「生き続ける理由」ひいては「死なない理由」に過ぎず、「生きる目的」というのには少し違っていたのだ。さっそくSORACHI1984とやらを飲み、なかなかおいしいじゃないのさすがサッポロビール、愛してるぜ、と満足し、感想をそれっぽく頭の中でこねくりまわしてみたりした。
 だが、宣伝しなかった。たとえ宣伝しようとも大してフォロワーがいない私のアカウントでは何の効果もなかっただろうが、そういう問題ではなくて、たとえば所在ない新人アルバイトに緊急性がないおしぼりの補充をしてもらうことで居場所を与えるようなもので、ほかの仕事を探すわけでもなく「今やる必要なんてありませんよねそれ」とか言うような新人はすぐクビになるだろう。お膳立てをしてもらった以上目的を果たすべきだった。飲んでいる途中に書きとめておくとか、記憶を引っ張り出して無理矢理書くとか、そういうことすらしなかった。ただ飲み終わってしまえば満足してしまったというだけの話なのだが、心にしこりは残ったままで、なんでもいいから書くべきだ、書かなければ、と思いながらも二週間放置しているうちに、SORACHI1984は店頭に並んでしまった。目的は果たされないまま消えた。 

 だから目的が必要だった。今日は丸ノ内線の新型車両に乗る、私は目的を果たすことができるのだと自分自身に言い聞かせたかった。達成は容易かった。帰り道、三本ほど電車を見送るだけだった。退勤ラッシュで混み合っており、車内を見回すことすらままならなかったが、とにかく目的を果たすことができた。

 だが、空虚なままだった。当然のことだが、果たしやすい目的は達成感も薄かった。自己嫌悪に太刀打ちするにはあまりに足りず、新たな目的を見つける必要があった。ぼんやりと満員電車の中で考えたのは、先日部屋の片付けをしている最中に久しぶりに発見したウッドストックのバッジのことだった。

 ゾゾタウンで見つけたそれは、大きめでしっかりしておりウッドストックの表情がとてもキュートだとはいえ、所詮プラスチック製のバッジであるにもかかわらず、当初五千円という強気な値段で売られていた。初めて見たとき、「誰が買うねんこんなもの」と悪態をついたのだが、それは何に使うのかもわからないバッジに五千円も払うわけにはいかないという理性の働きかけによるものであることは明白だった。その証拠に、二週間に一回ぐらい商品ページへアクセスし、そのたび「何に使うねんこんなもの」と悪態をつきつづけながらも、年末セールで案の定売れ残っていたそれが七割引で販売された時、「何に使うのかわからないバッジごときに、千五百円でも高すぎるやろ」と逡巡する振りをしながらすぐに購入したのだ。だが、当初の懸念通り何に使うのかわからないウッドストックの顔バッジは、どこに付けるべきなのか迷っているうち我が家の汚部屋の混沌に紛れてしまったのだった。

 

 生きる目的について考えたとき、あのウッドストックを付けられるものを、ウッドストックの居場所を探してやればいいと思った。大往生を迎えられるかはわからないが、とりあえず死ぬまでにウッドストックのバッジの居場所を見つけてやればいい。これは確かに生きる目的だ。そして、もし居場所が見つからないまま私が死んだとしても、死装束の胸部分にでもつけてもらって一緒に焼いてもらえば、最期に目的は果たされる。ビールの宣伝すらできなかった私を、ウッドストックが許してくれる、と思ったのだ。

 ただ、今際の際に「ウッドストックのバッジと一緒に焼いてくれ」と言い残すのはやはり少しどうかと思うので、できれば生きているうちに居場所を見つけてやりたい。 

 

2019年4月17日 帰路にて

f:id:stuffyfrog:20190417004423j:image