dan-matsu-ma

イアラー!

タピオカ考

 阿佐ヶ谷駅はそれほど大きくなく、都会的とは言い難いのだが、なぜか駅前にGong Chaという今ブームのタピオカ屋がある。ここができたのは2016年、現在のタピオカブームが始まる前で、クリスピークリームドーナツが潰れた跡地だった。クリスピークリームドーナツができたのも意外だったが、その跡地にタピオカ屋ができたのはもっと意外だった。「今更タピオカはなかろう」と思った。予想通り、開店してしばらくはあまり客が入っている印象がなかったのだが、その後タピオカブームが訪れ、あれよあれよと客足は伸び、繁華街の店舗ほどではないだろうが店前にはいつも列ができるようになった。先見の明があったということだろう。自分の住む街に繁盛店があるのはなんとなく嬉しかったが、一度もその店に行ったことはなかった。タピオカにあまり好印象を抱いていなかったからだ。

  十年以上前、たしか上京したころ、一度だけ新宿駅前のタピオカ店でタピオカを飲んだことがあった。「一度タピオカを飲んだことがある」という記憶と「過去にもタピオカブームがあった」という知識がごちゃまぜになって曖昧になって、ブームに乗ってタピオカを飲んだものだと思い込んでいたのだが、調べてみると第一次タピオカブームはどうやら1992年ごろらしい。私が四歳のころ。記憶の片隅には残ったかもしれないが、 タピオカがどういうものかを認識していたかすらも怪しい。とりあえず、私がタピオカを飲んだのはブームに乗ったわけではなく、それがひとりで飲んだのか友人と飲んだのかすら覚えていないが、 おそらく都会に移り住み、新宿の街の今まで見たことのない人波に興奮を覚え、勢いで買ったものなんだろうと思う。

 まあそんなことはどうでもよくて、とにかくその一度のタピオカ体験で「あまりおいしくないな」という感想を抱いたことは覚えている。それゆえに、ふたたびタピオカに手を出すことはなかったのだが、最近テレビやSNSでタピオカを目にする機会が増え、ほぼ毎日阿佐ヶ谷駅前に列ができているのを見てしまうと、「あまりおいしくなかった記憶があるしな」という思いを跳ね除けて再チャレンジしたい欲がやってきた。特にSNSの意見はテレビに比べて身近に感じてしまう(ネットリテラシー弱者の意見)。それで失敗したことは多々あり、たとえば松屋の「うまトマハンバーグ定食」が復活するたびツイッターのタイムラインが賑わうのを見てつい食べたくなってしまい、普段めったに行かない松屋に行き、「ああ、そういえば私うまトマハンバーグはあんま好きじゃなかったな」と一口食べた瞬間に思い出す、というのを四回くらい繰り返しているのだが、そういうことがあってもなかなか懲りない。三十歳になったにもかかわらず私の軸はふわふわとしていて、すぐ人の意見に流されてしまうふしがありすぎる。 猫背なのも、最近勃起が著しく衰えているのも、心の軸がしっかりしていないのが身体に現れているせいかもしれない。

 とりあえず、恋人に「最近、またタピオカ流行ってるねえ。昔飲んだことあるんだけれど、あんまおいしくなかった印象しかないんだよね。飲んだことある?」と持ちかけてみたところ、「たぶん飲んだことあるけど、特別おいしかった印象はない」と私と似たような感想が返ってきた。これ幸いとばかりに「でもこれだけ流行ってたらなんかもう一回飲んでみたい気分にならん?」 と言ってみたが、「飲みたいならいいけど、別に印象が変わるわけでは無いと思うよ」という返答だった。恋人はことこういうことに関して、軸が非常にしっかりしている。そして軸がふわふわした私は流されやすい。まあそりゃそうよな、突然あんなものがおいしくなるわけではなかろうし、と(別に恋人も説得を試みたわけではなかろうが)あっさりと納得し、タピオカ熱はとりあえずなりを潜めた。
 そもそも見た目があまり好きではないのだ。たぶん言い尽くされているだろうが、カエルの卵を彷彿とさせすぎる。ミルクティの中でおたまじゃくしが回遊しているイメージは、あまり食欲をそそるものではない。私は生物としてのカエルは好きだが、愛するあまりその卵を食べたいといった歪んだ欲望を抱くほどではない。
 また、タピオカの特徴として食感が挙げられるが(むしろ食感しか挙げられていないが)、その一番重要な食感に関して、過去飲んだことがあるにもかかわらず記憶が曖昧だった。弾力があることだけしか覚えていなかった。カエルの卵のイメージに引っ張られているのだろうが、イクラのようにぷちりと口の中で弾けるイメージがあった。ミルクティと弾ける食感は、 いかにも相性がよくなさそうだ。そんな印象もあって、「まあ、あまりおいしくなかった記憶があるから」となんとなくの忌避がなんとなく継続された。

 だが、連休の終わり、特にやることもなく一人で部屋でぼんやりと過ごしていた中、なぜかタピオカ熱が再燃した。今飲んでみたら好きになるかもしれないだろう、と突然思い立った。見た目が苦手な食べ物はほかにもある。だが、シャコ、豚足、巻き貝、鶏の足、すべて慣れてしまえば、もしくは目を瞑ればおいしかったではないか(鶏の足は、かつて飲食店で勤務していたころ、 中国人アルバイトの女の子が「これおいしいから食べてみてください」とくれたもので、鶏の爪そのままの見た目があまりにグロテスクだったため一歩引きかけ、しかし社員としての好感度と矜持を保つため笑顔で「ありがとう」と受け取り、こっそり目を閉じて食べた。おいしかった)。また、牡蠣や椎茸は子供のころ嫌いだったが、今となっては大好物だ。過去の記憶なんてあてにならないと、味覚は変わっていくものだと、私は充分わかっているじゃないか。
 もちろん、嫌いになるかもしれない。だが、私の中でのタピオカ、すなわち「十数年前に飲んで食感すら覚えてないけど、あまりおいしくなかった記憶があるからおそらくあんまり好きではないけど、別にもう二度と飲みたくないって思ったわけでもないからみんなが飲んでいるならもう一度飲んでみたいけど、飲んだところで改めて印象が変容するわけではなさそうだから飲む必要もなさそうな気がするもの」はまさしく私の軸のふわふわ加減を象徴する存在だ。あまりにふわふわしすぎている。これに決着をつけることで、一つのしっかりした軸を得ようではないか。自分探しの旅みたいなものだ。“三十路”と“自分探しの旅”の組み合わせはとてつもなく痛々しいが、まあそれは置いといて、無為に過ごした休日を、ひとつの自分を見つける有意義な一日に変えてみせよう!
 ここまで考えたところで、たとえばこれが繁華街まで行き数十人の行列に並ばないといけないものだったとしたら「まあでもわざわざ行くのも面倒くさいし、おっさん一人で並ぶのはちょっと気が引けるし、今度にしよう」と逃げ出しただろうが、徒歩十分の慣れ親しんだ阿佐ヶ谷駅にタピオカ屋がある、という事実が私を勇敢にさせた。ずっと阿佐ヶ谷で暮らしているのに駅前の店に入ったことがない、という劣等感もあったのかもしれない。それでもカップルと子連ればかりの列に加わるのには少し覚悟が必要だったが、それくらいの障壁があったほうが旅は楽しい。注文形態がわからず、とりあえず商品名さえ言えばなんとかなるだろうと「ブラックミルクティプラスタピオカエスサイズで」と言ったところ「氷とシロップの量はいかがなさいますか」と予想外の質問が返ってきて、戸惑い五秒ほどフリーズしてしまったことも、旅の笑い話としてちょうどよかった。

 そして、タピオカは案外おいしかった。見た目のグロテスクな印象は拭えないが、食感は白玉に似てもちもちしていて(これなら白玉でもいいんじゃないのか、と思わなくもないが)ミルクティとの相性がよい。価格はやや割高のように思うが、小腹も満たされスイーツ代わりになるため、特別高いと言うほどでもない。まあこんなものか。飲んでしまえばこんなものだ。

「嫌いではないがあえて行列に並んで飲むのはめんどうくさい、安くはないが高くもない、食感は嫌いではないが特筆すべきでもない、見た目は相変わらずグロテスクだが問題ない、もしかしたらたまに飲みたくなるかもしれないが一生飲まないかもしれないもの」と私の中のタピオカの立ち位置が更新された。結局はっきりとした結論は何一つない、ただのマイナーチェンジ、v1.01→v1.02レベルだった。
 よく考えてみたら当然のことで、なぜ一度飲んだことのあるタピオカの記憶が曖昧だったのかと言えば、好きとか嫌いとか一概に言いきれるほどの感想を抱かなかったからだろう。「どちらかといえばマイナス」から「どちらかといえばプラス」に転じたのはどちらかといえばいいことだが、相変わらず私の軸はしっかりとしていない、と再認識したに過ぎなかった。

 陰鬱とした気分で、底にたまったタピオカをストローで追いかけ吸い取り、もちもちと咀嚼しながら、意外とカエルの卵ももちもちしているのかもしれない、一生食わないからそういうことにしておこう、と決めた。そう考えると私の軸も、しっかりとしないままとはいえ、ふわふわとした中にもちもちとした食感が加わった気がする。ふわふわもちもちした軸。すぐ曲がるけれど折れなさそうで、案外悪くないのではないか。なんとなくいい感じの結論が出たので、自分探しの旅としては上々の結果だと満足することにした。有意義ではないが、無為とも言い難い一日になった。

 

2019年5月6日 阿佐ヶ谷駅前にて