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イアラー!

現実から逃れてサウナに行こう

 ああ、今年もいつのまにか秋が終わった。何もなさないまま秋が終わった。

 日々大した楽しみもなく、薄給で長時間働き、「疲れた」が口癖になり、加齢による関節の痛みに耐えながら、同年代の平均年収を見て吐き気をおぼえ、キャリアプランだの老後資金だのから目をそらし、「生きている」というより「緩やかに死んでいる」と言った方が近い日々を送っているうちに秋が終わった。

 現実はいつでも残酷なので向き合うことから逃れたくなるが、希望と言う名の妄想にふける若さはもはやない。私は哲学者でも詩人でもないので、つらい現実と向き合っても人生の意味を解することはできないし、美しい詩を生むこともできない。ただつらいだけだ。

……と、このように残業が続くと思考がネガティブに走る。とてもよくない。

 こんなときにはサウナだ。

 あの重い扉を開けて現実から逃げよう。日常生活では味わうことのない熱気で全身を蒸され、汗をだくだくと流し、水風呂で熱を放出し、あの脳が締まって寿命がちぢむような快感をおぼえよう。すべての現実から目を逸らそう。全裸であれば地位も名誉も年収も人間性も恥も外聞も関係ない。サウナに入っている時だけ、私は劣等感から逃れられるのだ。

 日々のつらさから目を逸らし、どこの銭湯に寄ろうか、楽しみだなあ、と無理やりポジティブへ思考をスイッチさせる。

 

●馴染みのサウナか、新規開拓か
 港区の職場から自宅がある杉並区まで約10km、自転車での帰路のあいだには多数の銭湯がある。

 表参道から新宿、東中野、中野、高円寺、阿佐ヶ谷といたるところにサウナ付き銭湯が点在しており、ホームサウナにしようか、最近行ってないあそこにしようか、それとも行ったことないところにしようか、という選択の自由が楽しめる。しがらみだらけの人生に残された、ささやかな自由。

 馴染みのサウナは自宅のような安心感があるが、『非現実』への逃避という観点では、新規開拓のほうが適しているといえるだろう。しかし、新規開拓には心の余裕が不可欠である。はじめての銭湯には、ローカルシステムを理解する工程が発生するからだ。

 靴箱の鍵を預けないタイプだったり(突き返されて恥をかく)、オートロックのロッカーだったり(ロッカー内に鍵を入れたままにして恥をかく)、サウナキーのひっかける部分がちょっと変わっていたり(サウナ前でまごついて恥をかく)、番台で渡されたタオルをサウナに持ち込まないといけないタイプだったり(サウナ料金を払わず入った人だと思われ、注意され恥をかく)……。

 普段ならばそんな失敗など大した問題ではなく、「人は失敗から成長するのだ」と己を戒めながら成長の糧へと繋げられるが、心に余裕がないと、ささいな失敗でも一気にメンタルがもっていかれ、サウナに入りながらも過去の恥を反芻してしまい、叫びだしたい欲望にかられ、たいていのぼせる。

 ということで、己の心と相談し、余裕がなければ馴染みのサウナ、多少の余裕があれば新規開拓へと向かう。

 

●テレビについて
 若者のテレビ離れと言われて久しいが、サウナにテレビが設置されていると意外と老いも若きもみなじっと見つめている。動いているものを目で追うのは本能であり、私たちは人間である前に動物なのだ。全裸というドレスコードもおそらく本能を剥き出しにするのに一役買っている。

 こちらの意思など関係なくノンストップで情報を提供してくるテレビは、思考を研ぎ澄ませたいときには邪魔になりがちだが、現実逃避という観点ではテレビからの情報に身を委ねるだけですむので、意外と悪くはない。

 しかし、それはつまり心がすべてテレビ番組に持って行かれるので、お笑い番組やドラマなど喜怒哀楽へ訴えかけてくる番組が流れていると精神が摩耗してしまう。サウナの熱で頭がぼんやりとしてくるときに入ってくる情報は、脳へダイレクトに響くのだ。サブリミナル映像をサウナで流されたら洗脳されてしまうかもしれない。宗教を開くときはまずサウナを建設しよう。

 結局、サウナのテレビはチャンネルを選べないという博打要素が大きい。『ドキュメント72時間』とか『マツコの知らない世界』くらいのゆるい番組だけ流してくれるサウナがあるといいのに。

 

●時間(と音楽)について
 “サウナ時間は己の体調と相談し、決して無理はしない”というのはもちろん大前提である。しかしそうは言っても、「少なくとも7~8分、できればそれ以上」という絶対的基準に縛られがちだ。

 結果、砂時計の残量をじっと見つめ、心の中で「もう少しはやく落ちてくれねえかな」などと“砂への怒り”みたいな新たな感情が生まれてしまったり、サウナタイマーの針をこっそり見ながら「あと1分で出よう……あと55秒……50秒……」と無駄なカウントダウンをしてしまったり、本来休息であるサウナが試練に変わってしまいがちだ。

 サウナ客がみなこっそりチラチラと砂時計やサウナタイマーを覗き見ているので(何も恥じることはないのに「サウナタイマーを凝視する人」と思われたくないのはどうしてなんだろう。服屋でプライスタグを確認するとき店員の目を盗んでこっそり見てしまうのと似ている)、なんとなく視線が定まらず、心も定まらない。

 なので、音楽が流れているサウナでは、砂時計やサウナタイマーを見るのではなく、一曲を4~5分と見積もり2曲程度を基準に出ることにしている。「曲」を判断基準とすると、目を閉じても大体の時間が測れるので、“視覚”から解放されるのが良い。

 とはいえ、懐メロが流れるサウナで鈍色の青春時代を思い出してつらくなったり、『トイレの神様』フルコーラス9分52秒が流れて植村花菜を少し恨んだり、心の中で一人イントロクイズタイムが始まり無駄に集中してしまったり、ジャズが流れるサウナは無駄にムーディーでそこはかとなく淫靡な空気が漂っていたりと、これはこれで落ち着かないことも多かったりするのだが。一長一短である。

 

●サウナと水風呂の温度について
 熱いサウナとぬるめのサウナ。

 当然、熱いサウナほど非日常であり、水風呂に浸かったときの快感もひとしおだ。だが熱さには試練がつきもので、思ったよりも耐えられず5分程度で逃げ出てしまったときには「はい、サウナからも逃げ出すんですね。このように辛いことからすぐ逃げつづけた結果、何もなせない自分になってしまいましたよね。その結果が今ですよね」と、最初に自己肯定感を削ることで己の信条を植え付けようとするタイプの自己啓発講師が脳内に現れ、却って現実に引き戻されてしまう。「先に入っていたあの人が出るまでは耐えねばならぬ」と勝手に我慢比べをしてしまいがちなのもよくない。

 一方、ぬるいサウナはゆっくりじっくりと楽しめて快適だが、現実のぬるま湯生活のごとくメリハリがなくなり、無為な日常を思い出すリスクがある。いずれにしろサウナに入るときは思考は捨てたほうがいい。

 そして水風呂。冷えた水風呂は一気に目が醒めるような快感がある。しかし醒めるということはつまり現実に還ることと言える。一方、ぬるい水風呂は一瞬の快感では劣るが、熱された身体と思考がゆっくりと溶けていき、トリップしやすい。

 最後は休憩。外気浴のあるサウナは心地いい……のだが、特に寒い季節はどうしても身体が冷えてしまうので、現実に引き戻されがちだ。二周目、三周目と身体の芯があったまってきたころには良いのだが、一周目は銭湯内の蒸気にあてられながら、体温を下げずにゆっくりしたい。休憩スポットが外気浴スペースと風呂内の二か所にあるととてもうれしい。

 サウナの一連の流れによる陶酔が「ととのう」と表現されるようになって久しいが、個人的には「とっちらかる」だ。ふらふらとした脳が過去現在未来の区別なく様々な情報や記憶を引っ張り出してきて、現実と空想の区別があいまいになり、『ダンボ』のピンクエレファントのごとくトリップするイメージ。夢うつつの千鳥足でまたサウナへ入る。さよなら現実。将来が不安な若者はドラッグへ逃げる前にサウナを覚えたほうがいい。

 

●ついでにスチームとロウリュ、スーパー銭湯
 スチームサウナは富の象徴である。一部例外はあれど、基本的にはスーパー銭湯やスパ、サウナ専用施設のサブサウナとして設置されていることが多いからだ。

 日々通うのは乾式サウナだが、たまに行くスーパー銭湯で「せっかくだから入っとくか」と楽しむスチームサウナはおまけと言うにはあまりに贅沢だ。ハーブの香り(本当にハーブの香りなのかどうかはわからないが、正式名称がわからない香りはすべてハーブの香りと言っておけば大体間違いない)と、永遠に入っていられそうな心地よい温度、肌を潤すスチーム。クレオパトラの入浴ってこんなイメージだ。

 そして、ロウリュも富の象徴である。こちらもスーパー銭湯やスパ、サウナ専用施設でないとなかなか味わえない……という理由もあるが、ロウリュ師が私のために汗だくでタオルを振っているのを見ると、王族の気分になってしまうというのが大きい。熱風を喰らわせるのはどちらかといえば攻撃なので、反乱を起こされているといったほうが近いかもしれないが。ダイレクトに喰らうハーブの香り(略)の熱風と、そのあとの水風呂の心地よさ。一人では決して楽しめない快感は、やはり下僕を従えた王の悦楽だ。

 スーパー銭湯は薄給の身には贅沢である。しかし、現実から逃れられるだけではなく、王女もしくは王になるというひとときの夢想がついてくる。そう考えると決して高くはあるまい。宝くじを買うよりは堅実だ。

 

●結論
 つらつら考えてみたものの、結局サウナが熱かろうがぬるかろうが、テレビがあろうがなかろうが、音楽が流れていようがいなかろうが、新規だろうが常連だろうが、そこがサウナでありさえすれば大した問題ではない。どんなサウナでも己の心次第で現実から逃れることはできる。

 子供のころ、父に連れられてよく行っていたスーパー銭湯で、おじさんたちが皆サウナに長時間入っているのを見て、「なんでこんな熱いところにわざわざ入るんだろう」と疑問に思っていたものだった。

 だが、今ならわかる。きっとあのおじさんたちも、日々のつらい現実から逃れるためにサウナに入っていたのだ。あのころの私が、日々のつらい現実から逃れるためサウナに逃げ込むおじさんの一人となった今の私を見たら、それはもうかなりのショックを受け将来への希望を失いかねないが、実際はそんなに悪いことばかりではない。私にはサウナがある。サウナごときで救われるなんて、実はこの上なく幸福なのだ。

 だからあまり悲観しないでおくれ、あのころの私。今日現実から逃れるのは、明日現実と向き合うためなのだよ。

 

2021年11月 自宅にて

 

サウナイキタイアドベントカレンダー2021に参加させていただいたものです。