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イアラー!

もつつもたれつ

 数年前、友人が突然肉を食べるのをやめた。魚介類は食す菜食主義者、いわゆるペスカタリアンになったのだ。かねてより「人間は絶滅して動物だけの世界になればいい」と終末思想を述べていた彼が、偶然出会ったペスカタリアンの人とお付き合いをはじめ、思想が共鳴したので肉を断ったとのことだった。
 動物愛護が当然のごとく叫ばれるこの時代、倫理を突き詰めてしまえば劣悪な環境の畜産に正当性があるはずもなく、それでもなぜ肉を食うかといえば、最終的には「うまいものを食いたい」という理性的動物にあるまじき本能的欲求によるものであろう。しかし本能的欲求を抑えきれない私は「どうせそのうち肉食いたくなるって、だから早いうち諦めたほうがいいよ!」と友人の倫理を揶揄し、愚かな人類を体現していた。
 しかし私の予想を裏切り、数年経った現在に至るまで友人は肉を断ち続けている。かえって代替肉や豆乳といった限られた食材での調理を楽しんでいる様子だ。とはいえ思想をこちらに押しつけてくることもなく、ともに食事をする際に私が肉を注文しようとも特に気にすることもない様子なので、付き合いは変わらなかった。
 となれば、私が理性を勝ち得た友人を批判する権利も理由もあるはずがない。
 だから、もう認めざるを得ない。
 私はもう、プリプリなモツ鍋を食べることができない。

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正しいままではいられなくとも

 そもそもはじめに口ごもったのがよくなかった。

 先日訪れた調剤薬局から「お渡ししたお釣りが少なかったので、お返ししたいのですが」と電話があり、あらまあそれは仕方ないわねえ面倒くさいけど取りに行くしかないわねえ、と心の中でぶつくさつぶやきながら、つい「おいくらですか?」と聞いたところ、「130円ですね」という答えが返ってきたときに、即座に「わかりました、それでは後日取りに参ります」と大人の対応をすべきだった。

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現実から逃れてサウナに行こう

 ああ、今年もいつのまにか秋が終わった。何もなさないまま秋が終わった。

 日々大した楽しみもなく、薄給で長時間働き、「疲れた」が口癖になり、加齢による関節の痛みに耐えながら、同年代の平均年収を見て吐き気をおぼえ、キャリアプランだの老後資金だのから目をそらし、「生きている」というより「緩やかに死んでいる」と言った方が近い日々を送っているうちに秋が終わった。

 現実はいつでも残酷なので向き合うことから逃れたくなるが、希望と言う名の妄想にふける若さはもはやない。私は哲学者でも詩人でもないので、つらい現実と向き合っても人生の意味を解することはできないし、美しい詩を生むこともできない。ただつらいだけだ。

……と、このように残業が続くと思考がネガティブに走る。とてもよくない。

 こんなときにはサウナだ。

 あの重い扉を開けて現実から逃げよう。日常生活では味わうことのない熱気で全身を蒸され、汗をだくだくと流し、水風呂で熱を放出し、あの脳が締まって寿命がちぢむような快感をおぼえよう。すべての現実から目を逸らそう。全裸であれば地位も名誉も年収も人間性も恥も外聞も関係ない。サウナに入っている時だけ、私は劣等感から逃れられるのだ。

 日々のつらさから目を逸らし、どこの銭湯に寄ろうか、楽しみだなあ、と無理やりポジティブへ思考をスイッチさせる。

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アイスクリームの天秤

 10年使っていた冷蔵庫がいよいよ壊れたので、買い替えることになった。科学の進歩はめまぐるしく、大抵の家電は買い替えると新たな機能がついていたりして多少なりとも楽しみがあるものだが、冷蔵庫に関しては別だ。新しい機種でもせいぜい「急速冷凍」「自動製氷」くらいで、結局「冷やす」「凍らせる」だけだ。特に目新しい機能はなく、何の楽しみもない、つまるところただの痛い出費である。
 だがまあ、これもいい機会と考え、冷凍庫を整理することにした。いつ冷凍したかわからない惣菜や野菜であふれており、スペースが足りなかったのだ。コロナ禍により満員電車を避けて自転車通勤をはじめたところ、疲労がたまるようになり、疲労がたまると湯舟に浸かりたくなり、湯舟に浸かるとアイスが食べたくなる――というサンプルが私一人だけの風桶理論により、我が家のアイスの消費量が増加していた。都度購入するのは手間だし、コンビニで買うのは家計に優しくないし、この機会にアイスを常にストックしようと決心した。

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愛のサイクル

 コロナ禍で満員電車に乗るのがはばかられるようになったので、かねてからの懸念であった脂肪の燃焼も兼ねて、自転車通勤をはじめた。片道約一時間の通退勤、身体はしんどいけれど心は快適。もしかしたら歩く時間よりも自転車に乗っている時間のほうが長いかもしれない。もはや自転車は足代わりといっても過言ではない。だからもちろん大切な愛車だ。とても大切だ。本当に。本当に大切だ。前から大切だったが、今はもっと大切だ。大切でなければいけないのだ。

 私が住んでいるアパートには駐輪場がない。ポスト前のちょっとしたスペースに自転車を停めていいことにはなっているのだが、そこには当然屋根がない。
 二年前にジモティーで買ったtokyobikeのシティバイクは、タイヤがそれほど大きくないわ変速もついていないわでゆるい坂すら上るのに一苦労だけれど、カーキのボディにブラウンの前輪とホワイトの後輪のカラーリングがなんだかおしゃれでかわいくて、自慢の愛車だった。だが、そんな愛車も雨風にさらされるうち少しずつ赤錆が目立つようになっていた。それは仕方ないことだった。大切な自転車だけれど、雨が降るから万物は生き延びているし、屋根がなければ濡れるのは当然なのだから。他の住人の自転車もそこそこ錆び付いているのを横目で見て、なんとなく安心しながら駐車し、常に愛車を雨風にさらしていた。他の人もそうなんだから、仕方ないことなんだから。私の心は、右ならえの日本人的気質に芯まで染まっている。

 しかし、そんな薄汚れた自転車の群れに、ある日突然美しい自転車が加わった。おそらくビアンキクロスバイクだ。おそらく、というのは未だ全貌を見たことがないからだ。そいつはシルバーのビニールカバーをかぶっていた。カバーの隙間からのぞくレッドのボディは光沢を保ち美しく輝き、チェーンもどうやらぴかぴかだった。へえ、いいなあ、こんな自転車欲しいなあ、スイスイ漕げるんだろうなあ。しばし見惚れたのち私の愛車を見返してみると、ボディは泥で汚れてくすみ、チェーンやスポークは赤錆にまみれて、控えめに言っても小汚なかった。どきりとした。本当に私は自転車を大切にしているのか。雨ざらしにして、錆び付かせて、それを当然として改善しようともしないくせに、どの口が大切だとほざいているのか。本当に大切ならば、自転車カバーをするくらい当たり前ではないのか。私のおしゃれでかわいかった自転車は、推定ビアンキの自転車により魔法を解かれ、鉄屑に戻ってしまった。

「ねえ、隣の子は塾に通ってるらしいわよ。うちの子にも通わせてあげないとかわいそうじゃないかしら」

 子を張り合う親の気持ちが少しだけわかった。絶対的に大切な我が子なのだから、相対的にも大切に見えるようにしなきゃ。まるで愛情を受けてないみたいで、かわいそう? いや、そんなはずはない。私はちゃんと愛情を注いでいる。雨風にさらされようと、愛情は真実なのだから、それでいいはずなのだ。……本当に? だってあの子はカバーをしてもらってるよ。どうしてうちには自転車カバーがないの?

 「よそはよそ、うちはうち!」と叫ぶ親の気持ちも少しだけわかった。急に愛車が不憫になってきた。私もカバーを買うべきなのか。駐車するたび部屋に戻り、カバーを持ち出し、一階に戻って逐一かぶせて、外出するときもカバーを外して一度部屋に戻ってカバーをしまって――ああ、たぶん無理だ。正直面倒臭い。……面倒臭い? 「大切な」自転車を守るためにちょっとした手間をかけることが「面倒臭い」の? それは本当に「大切」なの? 自己矛盾と自問自答が心をさいなみはじめた。

 いや、そうだ、そもそも、自転車にカバーをかぶせるくらいなら部屋に入れればいいではないか。そんなに大切ならば、屋根がない駐輪場もどきになんて置かなければいいのだ。「なんだかこれみよがしで、まるで子供をアクセサリーにしてるみたいじゃない?」陰口をたたくママ友の気持ちも少しだけわかった。羨望を隠すために、嫉妬を悟られないために、見たこともない推定ビアンキの自転車の持ち主を罵倒した。部屋に入れるよりカバーをかぶせたほうが楽であろうことに本当は気付いていながらも、自分の至らなさを悪意で覆い隠した。

 それから自転車に乗るたび、隣に並ぶシルバーの服を着た推定ビアンキに悪態をつき、一時的な心の安寧を得るために少しずつ自分を嫌いになっていた。このままではだめだ。私は私の愛車に改めて向き合わなければいけなかった。

 そうして私は、自転車に乗るたびに「私にはおそらく毎日きちんとカバーをするほどの甲斐性がない。三十数年生きて、できもしないことをやって失敗するつらさを嫌というほど覚えてきた。だから、私はあなたにカバーをかぶせることはしない。やろうともしない。でも、それはそれとして、私はあなたのことを本当に大切に思っている。雨風にさらされて赤錆まみれになっても、私にとってはあなたこそ唯一無二の愛車だ。いつもありがとう」といった言い訳じみた感謝を毎回心の中でつぶやくようになった。愛の言葉だけ一丁前に吐きながら、彼女を痛めつけ続けるDV男の気持ちも少しだけわかった。

 これからも私は私の自転車をとても大切に思わなければいけない。私が私を嫌いにならないために。こうして愛は義務になった。推定ビアンキはいつも目の端に映っているが、見て見ぬふりをし続けている。

 

2021年6月 自宅前にて

いつかまた会える日がくるかしら

 連休の最終日、明日からの仕事に備え肩こりを解消したく、整体へ行った。夜八時からの回しか空いておらず、整体を終えたのは十時近かった。こりの痛みからしばし解放され、身も心も軽くなったところで、異様な空腹をおぼえた。整体中にリバースするわけにもいかないので、まだ夕食をとっていなかったのだ。ああ、ラーメンが食いたい。いっちょスタミナが欲しい。しかし世は緊急事態、当然ラーメン屋はすでに閉店している。インスタントラーメンは家にストックしているが、あれは求めているラーメンではない。あれは“インスタント”とやらに魂を売り、“インスタント”と引き換えにラーメンを失った、つまりただのインスタントである。インスタントに私の心は癒やせない、求めているのは“ラーメン”だ。明日からまた仕事がはじまるんだ、嫌だけど生きていくには働かないといけないんだ、だから明日への活力のために妥協はできない、ラーメンが食いたい、ラーメンが食いたい、ラーメンが食いたい。

 そんな非常事態でもラーメンが食える時代だ。便利な世の中になったもので、今はデリバリーでラーメンが注文できるのだ。しかしほとんどの店が夜十時までの注文受付で、営業していたのはいわゆる二郎系ラーメン店のみだった。私は二郎系ラーメンというものを未だかつて食べたことがなかった。初心者お断りの空気の中、注文に手間取って侮蔑の目にさらされるのが嫌だった。狭苦しい店舗で脂ぎった山盛りの丼が運ばれてきて、だれもが豚のようにむさぼっていて、どうせ味が濃いだけなのに「こってり」という形容で誤魔化しているだけで、二郎系をステータスにする馬鹿なやつらしか通わないような店だ、油っこすぎるものは苦手だし胃ももたないであろうし食うまでもあるまい、と二郎系を徹底的に見下すことで、店に入る勇気が出ない己をごまかしていた。しかし背に腹は変えられないので、背脂に腹を満たしてもらうしかあるまい。インスタントを食うよりはマシだ、と二郎系のラーメンを注文した。無料で“野菜”というオプションがあったので、罪悪感をごまかすために大盛にした。これがヤサイマシマシというやつか。

 注文後、十五分も経たずに我が家にラーメンが運ばれてきた。下手したらインスタントラーメンよりインスタントだ。配達員に“夜中に二郎系ラーメンを食べる人”として認識されていると思うと恥ずかしかった。丼型の器になみなみと注がれた、見るからにこってりしたスープ。別皿に乗せられた麺には、チャーシューと背脂が添えられていた。視覚で認知する背脂は明らかにカロリーの塊で、食う前から罪悪感をもたらす代物で、すでに胃がもたれかけていた。そしてジップロックいっぱいに詰められたもやし。せめてキャベツくらいは入っているものだと考えていたが、見渡す限りのもやし。オールもやし、もやしオンリー、これならば“もやし”と銘打てばいいのに、“野菜”とするところに悪意を感じた。正直なところ、私と二郎系のファーストコンタクトの印象は最悪だった。

 苛立ちながらスープに麺と背脂をぶちこみ、かるくかき混ぜ、ジップロックからもやしを流し込んだ。しかし、スープにひたしたもやしを一口食べてみると、なかなかどうして悪くないな、と思ってしまった。濃いめのスープと淡泊なもやしが合う。しばらくもやしを食ったところで、スープを一口飲んでみると、豚骨のうまみが脳をガツンと刺激するが思ったよりもこってりとしていない。そして麺をすすってみたところで、はっきりと実感してしまった。「ああ、うまい」と。身体がラーメンを欲していたのもあるだろうが、太麺なのでスープを吸うことなく、脂っこさがうまいこと中和されている。しばし無心で麺を食い続けた。一方で、これはよくない、と脳が危険信号を出していた。私は二郎系ラーメンをうまいと思ってしまった、これはとてもよくない、と。

 増加し続ける体重に怯え、なんとか痩せねばならないと、今日はランニングを頑張ったのだ。二駅先の整体までも歩いたのだ。リングフィットアドベンチャーで筋トレもこなしたのだ。しかし私は今、二郎系ラーメンをうまいと思っている。カロリーの塊に心奪われかけている。この恋は茨の道だ。「二郎系ラーメン」と「輝かしい未来」はほど遠い。二郎系ラーメンにはまっている人は真の幸福をつかめない、気がする(個人の見解)。二郎系ラーメンにはまった先には、奈落しかあるまい(個人の見解)。そう思いながらも、箸は止まらなかった。目の前にうまいものがあるなら、食わねばならない。だって人は理性だけでは生きていけない。

 麺を完食し、ふう、とため息をついた。正直、ものすごくおいしかったな。心が満ち足りていた。もう嘘はつけなかった。でも、これで終わりにしないといけない。終わりにしよう。私は二郎系ラーメンへの想いを断ち切らなければならない。私が未来へと歩んでいく上で、二郎系ラーメンは障壁にしかならない。もう二度と二郎系ラーメンは食わない。

 これが、最初で最後なんだ。

 そう決めてしまえば、私が次に取る行動はひとつしかなかった。冷凍庫からストックの白米を取り出し、レンジで解凍し、背脂が浮いているスープにぶちこんだ。これは別れの儀式だから仕方ない、余す事なく愛することで未練を断ち切るしかない。脂ぎったスープを吸った米を木匙で掬い、夢中でかっこんだ。これで最後だから、これで最後だからと豚のように貪り、空になった容器に「ごちそうさまでした」と謝辞を述べた。そして一息ついたところで、リングフィットアドベンチャーで追加の筋トレをはじめた。満腹の身体にはつらかったが、想いを断ち切るため、二郎系のことを忘れるため、必死にスクワットをこなした。こんな想いをするぐらいなら、出会わなければよかったのか。――いや、いつの日か、私が痩せた暁には、また素直な気持ちで会える日がくるはずだ。

 それまで、しばしのさよなら。

2021年1月11日 自宅にて