dan-matsu-ma

イアラー!

わたしたちはととのいたい(あるいはととのいたくない)

 私は「ととのう」という言葉からいつまで逃げ続けているのか。

 

●わたしたちはととのいたくない

「ととのう」という言葉が使われるようになって久しい。サウナブームの到来とともに「ととのう」という言葉は一気に世に広がり、老若男女問わずサウナ後の恍惚を「ととのう」と表現するようになった。
 一方で、サウナのレビューや感想で「ととのう」という言葉を使わない人も多いように見受けられる。おそらく意識的に避けているのだろう。かくいう私も「ととのう」という感想を未だ自発的に使ったことがない。
 サウナ後、水風呂を経ての休憩はたしかに恍惚をおぼえるが、それを「ととのう」という言葉で表現するのは少し違和感がある。「頭がシャキッとする」という人にとっては「ととのう」という言葉こそ意を得た表現であろうが、私にとっては「浮遊感のなかぼんやりと思考が右往左往し、頭の中がとっちらかる」といった感じで、「ととのう」というよりは「臨死」に近い。人類の死こそが地球の浄化につながり、ひいては宇宙が整理されると考えれば「ととのう」でも間違ってはいないかもしれないが、それは一個人が担うにはあまりに重すぎる言葉である。

 そんなふうに「ととのう」という表現を意味もなく深掘りして勝手に違和感をおぼえたり、あえて流行っている言葉を使わないことこそが「真の」サウナーと信じていたり(しかし『ワンピース』を読まなかったりテレビを見ないことを個性として“センス系サブカル”を自称するのが許されるのはせいぜい中高生までである)、新しい言葉に慣れ親しむことができなかったり(私たちは未だに『X』を『ツイッター』と、『イオン』を『ジャスコ』と呼ぶのをやめられない)、流行に乗って「若者ぶっている」と思われるのを恐れていたり(この多様性の時代に、いまだ中年は中年らしい振る舞いが求められている)、もしくはタナカカツキのライバルだったり、と様々な理由はあろうが、おおかたに共通しているのは“プライド”だ。
「ととのう」と言わないことで己のプライドを守ろうとしている。たった一言を使わないだけで守られるプライド。他者からみるとくだらないことであろうが、当人にとってはアイデンティティに直結する重要な一要素である。
 私たちは「ととのわない」ことでくだらないプライドを守っているにすぎない。

 しかし「ととのわない」のは簡単だが、ただの偏屈で「ととのう」から逃げてしまっていいのか。本当に私たちはととのいたくないのか。なぜ「ととのう」という言葉がこれだけ広まったのか、今いちど考え直すべき段階に来ているのではないか。
「ととのう」とは何なのか。

●本当にみんなととのっているのか
 そもそも「ととのう」と感想を述べている人たちは皆同じ快感を共有しているのか。
 当然そうとはいえまい。人によって体質は異なるし、サウナの楽しみ方ももちろん違う。ほどほどに身体があったまったところでサウナから出る人もいれば、茹で蛸になる限界までサウナにこもっている人もいる。キンキンの水風呂に数分浸かる人もいれば、ぬるめの水風呂に十数秒で満足する人もいる。休憩時間、給水、ローテーションの回数まで人それぞれだ。「ととのうというのは、サウナ・水風呂・休憩を繰り返していたら訪れる快感や浮遊感のことです」といった「模範解答」はあれども、真の意味で同じ感覚を共有していると断言することなど誰にもできない。各々が「おそらくこれこそがととのった感覚だ!」と信じているに過ぎない。
 それならばなぜみな同じ言葉を使うのか。「ととのう」と言うのか。
 それはもうサウナが一般的になり一つのエンターテイメントとして確立されたいま、「ととのう」という言葉は本来の意味を離れてしまったからだ。「ととのうとは何か、なぜととのうと表現するのか」と哲学的に探求すること自体がもはやナンセンスである。つまり「ちょっと気持ちよかったなあ」くらいでも、もう気軽に「ととのった」と言ってしまっていいのだ。「ととのう」の正解などおそらくあるまい。

 そもそも「ととのう」に限らず、人はいくら言葉を尽くしても、本当の意味で感情を完全に共有することなどできないはずだ。 友人や子供、パートナーと「楽しいね」「面白かったね」「怖かったね」などと笑い合ったときでも、一から百までぴったりと感情の波形が重なっていたことなどありえない。なんとなく感情の方向性が同じであるというだけだ。それでも同じ言葉をかけあい、感情を共有し合うことに喜びがあるのだ。
「ととのった」と言われたとき、「ほうほう、君は私と同じととのいを得たんか、私と同じ恍惚を感じられたんか、サウナと水風呂は何分ずつ入りはったんや、休憩はどれくらいしはったんや、何セット廻ったんや、どんな浮遊感を感じどんなととのいを得はったんや、君にとってととのうとは何なん?」と詰める人など(たぶん)そうそういないだろうし、「サウナ上がりのこの感じ、気持ちいいけどサウナの記事で読んだ感覚とはちょっと違う気がするなあ、私は悟りは得られなかったなあ、じゃあととのうとは違うのかなあ、気持ちよかったけどととのったわけじゃないのかなあ」みたいなことを考え続けて悶々と修行のようなサウナライフを過ごす必要もあるまい。
 ただ己自身の快感を追求し、良きところで「ととのった」と言ってしまっていい。形はどうあれ、ともかくサウナを楽しんだ、そのことこそが現代の「ととのった」なのだ。つまりサウナの喜びがそこにあれば、「ととのっていない」ことなどありえないのである。
 時折ビギナーに「それは本当の意味でととのったとは言えないよ」というありがたい言葉と「正しい」サウナの入り方を教示する高尚なサウナーもいなくはないが、そういう奴は口にはサウナストーンを詰めて水風呂に沈めておけばいい。

●私たちはととのいたい
「ととのう」とはもはや「私はサウナを楽しみました」という喜びであり、「私はサウナを愛しています」という告白であり、「私はサウナに感謝しています」という祈りの言葉である。夏目漱石にとっての「綺麗な月」がサウナーにとっての「ととのった」である。
 もはや本来の用法を越えた広範的な言葉となったからこそ、これだけ一般に浸透したのだ。「ととのった」とただ一言伝えるだけで、いかにそのサウナを満喫できたのかがわかる。

 私たちは結局、他人の感情を理解することはできない。違う人間だから理解できるはずもない。そして苦しみ、諍い、殺し合う。
 それでも根底ではみなわかりあいたいと願っているはずだ。年齢や性別、言語や人種、文化や価値観がどれほど違おうとも、人と人には心が通じ合う瞬間がある。
 そしてサウナを愛する私たちは、たった一言「ととのった」と伝えるだけでいい。それだけで心を通じ合わせることができる。すべての垣根を越えて「私はみんなと同じように、今日もサウナを愛しました」と伝えることができる。
「ととのう」はもはやサウナーにとってのエスペラントだ。これは同調圧力ではなく相互理解のための言葉だ。

 ととのいスペースで座っている人たちはみな、穏やかな表情でサウナ後の余韻を楽しんでいる。老いも若きもみな同じ表情をしている。この人たちが何を考えているのか理解することは永遠にないけれど、少なくともみなサウナを満喫したことだけはわかる。
 本当の意味で感情を共有することはできなくとも、せめて私はあなたたちの敵ではないと、仲間であるとと伝えたい。
 だから、今日のサウナも気持ちよかった、今日もサウナを愛した、と伝えるために、これからは私も「ととのった」と言おう。「ととのわない」ことで守られる程度のプライドなど犬に食わせてしまえ。「ととのう」ことで私はようやく世界とつながることができるのだ。

 

「ととのう」とは、「あなたたちとわかりあいたい」というささやかな願いであり、「あなたたちとわかりあうことができる」というささやかな希望なのである。

 

 

サウナイキタイアドベントカレンダー2023に参加させていただいたものです。