dan-matsu-ma

イアラー!

もつつもたれつ

 数年前、友人が突然肉を食べるのをやめた。魚介類は食す菜食主義者、いわゆるペスカタリアンになったのだ。かねてより「人間は絶滅して動物だけの世界になればいい」と終末思想を述べていた彼が、偶然出会ったペスカタリアンの人とお付き合いをはじめ、思想が共鳴したので肉を断ったとのことだった。
 動物愛護が当然のごとく叫ばれるこの時代、倫理を突き詰めてしまえば劣悪な環境の畜産に正当性があるはずもなく、それでもなぜ肉を食うかといえば、最終的には「うまいものを食いたい」という理性的動物にあるまじき本能的欲求によるものであろう。しかし本能的欲求を抑えきれない私は「どうせそのうち肉食いたくなるって、だから早いうち諦めたほうがいいよ!」と友人の倫理を揶揄し、愚かな人類を体現していた。
 しかし私の予想を裏切り、数年経った現在に至るまで友人は肉を断ち続けている。かえって代替肉や豆乳といった限られた食材での調理を楽しんでいる様子だ。とはいえ思想をこちらに押しつけてくることもなく、ともに食事をする際に私が肉を注文しようとも特に気にすることもない様子なので、付き合いは変わらなかった。
 となれば、私が理性を勝ち得た友人を批判する権利も理由もあるはずがない。
 だから、もう認めざるを得ない。
 私はもう、プリプリなモツ鍋を食べることができない。

 

 34年余り、かろうじて社会生活を営んできたにもかかわらず、私には気兼ねなく食事に誘える友人が件の一人しかいない。そしてもう一人、気兼ねなく食事に誘える相手である恋人が唯一苦手とする食材こそ、モツである。私はモツ鍋に誘う相手を失ってしまった。モツ煮やホルモンならば一人で入る居酒屋でも食べられるが、モツ鍋となるとなかなかそうもいかない。(少ないとはいえ)他に友人はいなくもないが、物理的ないし心理的な距離ゆえに多少の気兼ねがある。そもそも大人の友人付き合いというのは気兼ねがあって当然だ。

 そしてモツ鍋というのは気兼ねの最上級に位置する。人によりスタンスの異なる鍋と、好みが多大に分かれるモツとのコラボレーション、そしてそれなりのお値段(モツは新鮮さが旨さに直結するので、スーパーのモツ鍋ではなく専門店のプリプリなモツ鍋が食べたい)。鍋に抵抗がないか、モツを苦手としていないか、そもそもモツ鍋にそれなりの金を払う価値を見出してくれるのか。相手への理解がなければモツ鍋に誘うことはできない。ファミレスや居酒屋に誘うのとはわけが違う。決して大好物というわけではないが、食べられないとなるととたんにモツ鍋への恋慕が募りはじめる。そういえば生レバーが販売停止になったときも同じようなことを考えていた。

 恋人から「別に一緒に食べに行ってもいいよ、モツは食わないけど」とありがたい妥協案をいただいたものの、それは違う。鍋を囲む人間は全員同じ熱量を持って鍋に向き合っていなければならない。鍋を囲んでいるときは誰もが平等でなければならない。モツ鍋を囲んでいるなかで一人でも「キムチ鍋のほうがよかった」と思ってしまうようならば失敗だ。私は誰かと同じ熱量でモツ鍋を食したい。理解しあっている人間同士がモツへの愛をぶつけあい、シナジーが生まれてこそモツ鍋を楽しめるのだ。私の中でのモツ鍋のハードルがどんどん高くなっていく。もはや自らモツ鍋を遠ざけているふしすらある。

 

 そんなことを定期的にぶつぶつと呟いていたら、恋人が九州旅行の土産に博多の有名モツ鍋店が販売している一人用モツ鍋チルドパックを買ってきてくれた。「夢は口に出さないと叶わない」とはよく言ったものだ。これは優しさなのか、愚痴を定期的に吐く私への哀れみなのか、もしくは嫌味と受け取られたのか、はたまた心底うんざりとしたのか、おそらくそのすべてだろうが、理由はどうあれ感謝をしながら一人用モツ鍋をいただいた。

 キャベツとニラを加えるだけで作れる一人用モツ鍋は、モツの脂が溶け出た醤油ベースのスープに旨味が凝縮されており、さすが有名店という美味さだった。

 これはモツ鍋だ。哀れな私を見かねて恋人がわざわざ買ってきてくれたこのモツ鍋。世界で一番尊いモツ鍋。これで満足だ。これで満足したい。これで満足できれば、どれほど幸せなことか。

 しかしチルドゆえに脂が抜かれて薄く小さくなったモツ肉を噛みしめれば噛みしめるほど、「これはこれでとても美味しい、美味しいけれど、私はプリプリなモツが食べたい」という欲求がかえって溢れ出てしまうのを止められなかった。

 このように人の優しさを平然と踏みにじってしまうような人生を歩んできたがために、気兼ねなくモツ鍋に誘える相手がいないのである。他者への優しさ、他者への配慮、他者への興味があってはじめて、人はプリプリなモツ鍋に辿りつくことができるのだ。そのすべてが欠けた私は、つまりもうどうしようもない。プリプリなモツ鍋を食う術をもたない今の私は、もはやこの一人用モツ鍋こそをモツ鍋とするしかない。

 

 私は貧乏人なので、基本的に寿司とは「閉店間際のスーパーで買うもの」で、ウニには「ミョウバンが当然に含まれているもの」で、カニは「紅ズワイカニ」である。それらと同様に、私にとってモツ鍋とはもはや「薄いモツ肉が入った一人用のモツ鍋」となった。カウンターで食う寿司が、塩水だけで保存されたウニが、タラバガニが、そしてプリプリなモツ鍋がこの世に存在することは知っている。それでも、私の手に届かないものは私の概念から抜け出してしまい、つまりすでに存在しないのと同じだ。こうして一人用モツ鍋を食べ続けているうち、プリプリなモツ鍋のことなんて忘れてしまって、一人用モツ鍋のことを当然のように「モツ鍋」と呼ぶようになる。プリプリなモツ鍋の幻影を見ながら、死ぬまで一人用モツ鍋を食べ続けるのだ。

 

 私はもうプリプリなモツ鍋を食うことはできない。
 それは私が築いてきた人生の答えであり、罪であり、罰である。
 来世も理性的生物かつ本能的欲求にまみれた人間に生まれ変わり、そして来世こそプリプリなモツ鍋を心ゆくまで食せるように、せいぜい今世のうちは徳を積んでおくことしかできない。


2022年12月 自宅にて