dan-matsu-ma

イアラー!

ウーバーイーツのパラドクス

「痩せたい」と口に出すのは簡単で、あまりに簡単なので口に出しすぎてしまい、その言葉は意味をもたなくなり、ただの音になってしまった。

 

 そもそも私は本当に痩せたいと思っているのか。「痩せたい」と口に出すことで、私には向上心がある、と自分自身に言い聞かせているだけではないのか。その自問自答は堕落を招く。「本気で私は痩せようと思っているわけではない」と自覚した瞬間、私自身の向上心さえも張りぼてとなり、自らが愚者であることを自覚しなければならないからだ。よって、私は私自身に向上心があると思い込むために、本気で痩せたいと思い込まなければならない(?)

  痩せたがりのパラドクス。自我の崩壊を招かないために、自分自身を騙す程度のダイエットが必要だった。しかし、「本気で痩せたいと思っているわけではないが本気で痩せたいと思っているふりをする」というのは、運動へのモチベーションとしてあまりに貧弱だ。だから人参が必要だった。食と同じくらい愛するものが目の前にぶら下がっていないと、動き出せそうになかった。 

 それは何か。金だ。

 金が嫌いな人はいない。いや、いないこともないが、たいていは拝金主義や体制への反発から嫌いな振りをしているだけだ。金がなければ世直しもできまい。金は万人に必要なのだ。
 そもそもスキルのない三十路の年収などたかが知れていて、生きていくのに精いっぱいである。脂肪を燃やすためだけに、一度解約したジムに再度月会費を払い続けるような余裕などない。
 だいいち脂肪とは、私が身を削り金を稼ぎ、その金で飯と酒を買い、結果身に蓄えたもので、それはつまり資産ではないか。まったく減る様子がないので、もはや固定資産だ。世が世ならば贅沢の象徴として脂肪税が課されてもおかしくない。よって、脂肪を燃やすのならば、むしろ金が入らないとおかしい。
 それゆえ、運動しながら金を稼ぐ必要があった。さらに仕事後の空き時間にできる兼業。とりあえずセックスワーカーが浮かんだが、射精に至るまでの消費カロリーなどたかが知れているし、そもそも需要がない。ということで、夕方のニュース番組で「最近のダブルワークスタイル」として紹介されていたUberEats(ウーバーイーツ)の配達員を始めることにした。
 最低限必要なものは自転車とスマホだけだった。ママチャリ(借り物)こそあったが、いかんせん走り回るには向いていない。モチベーションのためにも形から入ってみようと、スポーツサイクルとシティサイクルの中間のような、なかなかおしゃれな自転車を中古で購入した。さらに快適なワークライフを目指し、防犯登録、スマホホルダー、自転車用の堅剛な鍵とライト、雨ガッパと雨靴、そしてクーラーバッグなどを買い揃えた。

 初期投資でジムの月会費三か月分をゆうに超えた。三か月真面目にジムへ通えば脂肪も燃えたのでは、ともうひとりの私が問いかけてきたが無視した。
 私は哲学者ではないので、自己矛盾は無視することでしか解決できない。

 

 さてUberEatsだが、非常にシンプルなシステムでできている。専用アプリで「出発」を選択すると飲食店から配達リクエストが届く。所要時間と大体の位置がわかるので、受諾か拒否かを選択し、受諾するならば店舗へピックアップに向かう。料理を受け取りアプリで受取処理を行うと、配達先の住所が表示されるので、それに従いお客様のもとへ料理をお届けして配達完了。大体配達中に次の店舗からのリクエストが届くため、受付を止めない限りは自転車を漕ぎ続けることとなる。大体一回の配達でお賃金400~600円程度。一時間でせいぜい三回の配達が限度なので、アルバイトと比較しても大した給料にならないが、一応運動という大義名分のもとで始めているので、ちょっとしたお小遣いだと思うとありがたい。また、一回配達を終えるたびに賃金が表示されるので、(本来本業で得るべき)労働の実感が得られる。「突然仕事をクビになっても、これでとりあえず食い扶持くらいは稼げそう」という安心感ももたらされた。自転車で走り回るのは存外に気持ちよく、ひとりの気楽さも肌に合った。
 ダイエットをしていると思い込むためだけなら、それで充分だった。だが、それだけではなかった。
 アプリを開くと、私を必要とする飲食店からのリクエストが届く。そしてリクエストを受けた瞬間に、私の到着を待つ客ができる。これが思いのほか快感だったのだ。
 頭ではわかっている。彼らにとっては顔も人格も必要なくて、ただ料理の運搬だけが為されればいいのだ。これは惚れた男にセフレ扱いされている女が、「これから会える?」と深夜に呼び出しを食らい、葛藤するふりをしながらも“好きな男にとりあえず今必要とされている”という喜びに抗えず、みすみす穴を差し出しに行くのと一緒だ。まったく必要とされていないわけではないが、いくらでも代わりはいるのだ、私が断ったところでリクエストは他の配達員に回されるのだから。それでも女は男に「わかった! シャワー浴びてすぐ行くね!」と返信する。そうすれば、男は次の穴を探すことなく、私を待ってくれるとわかっているから。そう、リクエストを受けてしまえば、私は少なくとも注文を受けた飲食店と飯を求めた客にとって一時的になくてはならない存在となるのだ。顔も知らぬだれかが、私を待っている。山口百恵が歌っていたのはこういうことだった。いい日を選んで旅立つ必要も、日本のどこなのかを探す必要もない。私を必要としている人の居場所がGoogle Map上に表示されるので、ただそこに向かうだけでいい。「お待たせいたしました」と言うたびに、自己肯定感が満たされていた。
 さらに、配達員の評価システムまである。この評価が強制ならば、よっぽどひどくない限りとりあえずGoodを押す人が大半だろうが、これが任意制なのだ。どの店舗、どの客が評価したかまではわからないが、誰かが私にあえてGoodを押してくれている。ただ配達に行っただけの私を、誰かが評価してくれている。時折評価ページを覗き、Goodが増えているだけで浮かれる。私はこの世にいてもいいんだ。人生であまり人から必要とされたことがなかった反動か、その快感に抗えない。三十路の男が、他人からの評価で一喜一憂していた。

 

 私は痩せようとしている、と自分自身に言い聞かせる必要があった。自分自身の向上心を信じたかった。それはつまり、自分を肯定したかったということだ。だが、UberEatsにより、あまりに手軽に自己肯定感がもたらされてしまった。私にはもはや「痩せたい」という願望は必要なくなった。一方で、痩せるふりをするために始めたはずのUberEatsなのに、定期的な自己肯定感の摂取のために辞めるわけにはいかなくなった。

 つまり、私は今、自己肯定感を得るためにUberEatsを続けているということか?

 自問自答してしまうと、三十にもなって張りぼての自己肯定感のために自転車で走り回っている、あまりに哀れな自分自身と向き合わなければならない。

 それは、向上心のなさを自覚するよりもよっぽど辛い。
 よって私は、私自身を哀れではないと思い込むために、「私は痩せるためにUberEatsを続けている」と思い込まなければならない。

 私はこれからも、街中を自転車で走り回りながら、意味をなくした「Ya・Se・Ta・I」の音を発し続けていく。

 

8月14日 路上にて