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イアラー!

WASHABLE

 誰もが「成功できるはずない」と言うようなことでも、わずかな可能性に賭けて挑戦する人がいる。きっとそういう人は成功をおさめ、のちのち挑戦の尊さについてしんしんと語るのだろう。

 一方で、可能性がいくらあったとしても、挑戦しない人はしない。できない。失敗を恐れ、怯え、言い訳をつらつらと述べ、逃げ続け、いつまで経っても挑戦しない。”成功”には”失敗しないこと"とは比べ物にならないほどの価値があるとわかっていても。

  今日、私はスーツを洗濯した。

 これがシルク100%のスーツならば、スーツの洗い方をライフハックとして世間に披露しますので拡散してください、そうです私こそが成功者です、という話なのだが、なんてことはない、「洗濯ができるスーツ」とやらを洗濯機で洗ったというだけの話だ。

 しかしながら、そのスーツを購入したのは一年前のことである。この一年間、「洗濯ができるスーツ」をクリーニングに出し続けていたのだ。

 とはいえ、私がそもそも「洗濯のできるスーツ」なぞ求めていなかったというのならば、別に責められる謂われはない。買ったスーツが偶然ウォッシャブルだったからと言って、ウォッシャブルを求めていないのに自らウォッシュする必要がどこにあるだろう? 

 だが違う。私は、あえてウォッシャブルを選んだのだ。

 姉がファッション関係の仕事をしているため、時折おこぼれでサンプルセールの招待状をもらうことがある。特に某ユナイテッドなアローズのセールは、フォーマル・カジュアルともに取りそろえており、無難で汎用性が高いので、非常に重宝している。とはいえ、もともとはカジュアルの服しか購入していなかった。大学卒業から約八年、スーツのいらない仕事をしてきたからだ。ところが、転職によりフォーマルの呪縛が襲いかかってきた。大学入学時と就活時期にそれぞれ購入した二着のスーツは、十年間すくすくと健やか(を乗り越え不健康)に育った私の腹に耐えうるほどの伸縮性を持っていなかった。ホックを外しベルトで無理矢理固定することで転職活動をかろうじて誤魔化しきったが、いつまでもそのままというわけにもいくまい。内勤とはいえ、サラリーマンである以上スーツを着る機会はままあるのだ。痩せるという選択肢ははなからなかったので、新しいスーツを買わざるを得なかった。

 しかし、無職を経て金がなく、激安スーツくらいしか買える余裕がないとはいえ、年も年だし少しはましなスーツを着るべきではないか、と悩んでいたところで、姉からアローズなユナイテッドのサンプルセールの招待状を恵んでもらったのだ。70%引きならば貧乏人でも少しは仕立てのいいスーツが買えるはずだ、といそいそとセール会場へと向かったのだった。

 だが、セール会場で私が選んだのは、“WORK TRIP OUTFITS”というコレクションのポリエステル製スーツだった。仕立てのいいスーツを求めていたはずの私が、何故ポリエステルを選んだのか。軽くて動きやすく、もちろん安く、私の腹に耐えうるサイズで、ポリエステルにしては見栄えもいいというのもあった。だが、何よりも惹かれたのは、“WASHABLE-Machine Wash”という表記だった。ウォッシャブルスーツ。ウォッシュの可能動詞ウォッシャブル、つまり”洗えるスーツ”、マシーンウォッシュ、洗濯機にぶち込めるスーツ、いちいちクリーニングに出す必要がないスーツ。なんと魅力的なことか! 

 怠惰な私は、一瞬でウォッシャブルに心を奪われた。つまり私は、スーツにウォッシャブルを求め、スーツのウォッシャブルの可能性に期待し、スーツをウォッシュしてやろうと、スーツウォッシャーになる覚悟を持ってウォッシャブルスーツを選んだのだ。その私が、ウォッシャブルスーツのポテンシャルオブウォッシュを無視し、一年間クリーニングに出し続けた。これはもはや罪ではないか?

 

 私は、どうしてもウォッシャブルスーツを洗濯機へ入れられなかった。

 タグの表示を確認し、公式サイトに記された洗濯方法も熟読した。ウォッシャブルを売りにしているのだから、洗濯機に入れて問題はないのだ、躊躇するまでもないはずだった。だが、いざスーツを手にして洗濯機の前に立ったところで、「ふつうスーツって洗濯機で洗わなくない?」と私の中のギャルが疑問を呈してきた。常識が私の足を竦ませた。哀れな貧乏人の心中に「せっかく買った一張羅を駄目にしてしまうかもしれない」という恐れが去来した。愚かながら切実なその不安に打ち勝てるほどの信頼を、どうして"WASHABLE"なんて今ひとつ耳馴染みのない横文字ごときに抱けるだろう?

 ウォッシャブルをウォッシュするという、成功がほとんど約束されている可能性を前に、ありふれた常識に囚われ怯えそして逃げ出す阿呆の心中など、成功者には理解できないに違いない。彼らはきっと躊躇することなくウォッシャブルをウォッシュしてみせるだろう。そして、当たり前にできるべきことが当たり前にできない人間を、挑戦から逃げてばかりでウォッシャーにすらなれない腰抜けを、愚かで惨めだと嘲笑するのだろう。

 結局、私はウォッシャーになれなかった。「プロに任せておけば間違いないから」という、またありふれた常識を心の中で唱えながら、ウォッシャブルのスーツをクリーニング屋に持ち込んだ。そしてそれからも、ウォッシャブルの価値をなくしたただのポリエステルのスーツを着続け、汚れるたびにわざわざクリーニングへ出し続けた。

 

 そうして、ふたたび夏が訪れた。ウォッシャブルスーツに出会って一年が経った。

 今日、客先に出向くために着用したスーツは、たったの半日で汗だくになってしまった。これはまたクリーニングに出さなければならない、と思うと陰鬱な気分になった。私だって、この一年間なんの罪悪感もなくクリーニング屋にウォッシャブルスーツを出していたわけではない。ウォッシャブルをあえて無視して向かうクリーニング屋への道のりは、私の心を確かに蝕んでいた。

 またクリーニング屋に行くのか、本当にクリーニング屋へ行かなければならないのか、と自問した。これからずっとウォッシャブルをウォッシュする程度の覚悟も足りないままでいいのか。ウォッシャブルの肩書きに着目して採用したはずなのに、その才能を無視しながら、のうのうと生きていくのか。答えはわかりきっていた。「私はウォッシャブルです」と自己主張し続けているスーツがここにある。私のためではなくこいつのために、こいつを信じてやらなければならない。

 覚悟を決め、改めてマニュアルを熟読し、スーツを丁寧に折りたたみ、洗濯ネットに入れて洗濯槽に置き、念のため手洗いモードに変更してエマールをぶち込み、洗濯機の蓋を閉め「開始」ボタンを押した瞬間、確かに私の中でなにかが弾けた。指先から魂が解放されていく感覚だった。洗濯が終わり、丁寧に皺を伸ばしハンガーに掛け物干し竿にぶら下げたところで、どうやら失敗していないことがわかったときには、すでに呪いは解けていた。

 ただのポリエステルのスーツに成り下がっていたスーツは、私のほんの少しの覚悟で、ウォッシャブルスーツとして蘇った。

 成功が約束されていたことでも、実際に成功を収めてみると嬉しかった。当たり前のことが当たり前にできたことが嬉しかったのだ。誰に褒められるわけではなくとも、「私はスーツを洗濯したんだ!」と叫びたかった。たぶん、ウォッシャブルをウォッシュしてウォッシャーになるというような、誰もができるであろうことを当たり前に成功してみせるというだけの、単純な成功体験が私の人生に今まで足りていなかったのだ。

 もちろん、これで何もかもが当たり前にできるようになるわけではない。それでも、これからも引き続きウォッシャブルをウォッシュしていくたび、少しずつ自信を取り戻していけるのかもしれない。

 今日、私はスーツを洗濯したんだ!

 

2019年6月26日 自宅にて