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イアラー!

パスタとコック

 パスタの味が薄い。

 これは今日の昼飯に限った話ではない。我が家のパスタはいつも味が薄い。気づかないふりをしていたが、ずっと前からそうだった。理由はわかっている。麺が多いのだ。一人前のソースに対して麺が過剰なのだ。麺がソースを纏いきれていない。

 

 パスタは一人暮らしの味方だ。米より安く、味付けも多彩で、なんとなくおしゃれなイメージがある。ソースを作るだけで自炊をしているような満足感が得られるし、市販のソースも安くておいしい。真に金欠ならば具なしのペペロンチーノやナポリタンでもなんとかなる。私の東京生活はいつもパスタとともにあった。そして、いつも一人前の麺を茹でていたはずだ。しかし、我が家のパスタはいつからか薄味になっていた。

 上京したころは、パスタの一人前がどれくらいの量なのかわからず、インターネットで調べて逐一スケールで重量を計ったものだった。だが、毎回そうして計るのはあまりに手間がかかりすぎるし、「自炊? たまにはするかなあ」としたり顔で語るためにも、一人前のパスタくらいはスマートにピックアップできるようにしておきたかった。そこで、一人前のパスタの量を覚えるために、握り慣れている棒状のものと比べ、なんとなくの目安をつかむことにしたのだった。 

 

 平常時より太く、勃起時より細い。

 

 あれから十余年経った今でも、その認識を改めていない。つまり、パスタを茹でるたびに陰茎をイメージしている。もちろんパスタを茹でる前に実物を握るわけにはいかないので、いつも記憶の中の陰茎をグリップするつもりでパスタをピックアップしているのだ。つかんだ陰茎が沸騰した湯に散らばっていくのを見るたび、私は紛れもなく男なのだと実感する。

 一人前の目安が示されているようなパスタケースでもあればいいのだが、我が家にはそんな洒落たものはない。ジップロックに袋ごとパスタを入れているだけだ。そもそもそんなものは必要ないと思っていた、なぜなら私は陰茎をイメージするだけで一人前のパスタをピックアップできるはずなのだから。しかし、どうやら麺は一人前でおさまっておらず、結果我が家のパスタはいつも味が薄い。そもそもの前提(陰茎)こそが間違っているのでは、と改めて考えてみたが、平常時より細いとなるとかなり少ないし、一方で私の陰茎が成長した様子も見られないので、大幅な誤差が生じることもあるまい。

 となると、私はパスタを茹でるときだけ陰茎をでかく見積もっているということになる。パスタを茹でるときは大抵空腹なわけで、「おなかいっぱい食べたいな、足りなかったら嫌だな」という飽食の時代が産んだ深層心理が、私のエア陰茎を巨大化させているのだ。空腹が私を巨根にしているのだ。ぼく、おなかがすいておちんちんがおおきくなっちゃったよお!

 安野モヨコの『脂肪と言う名の服を着て』という漫画で、肥満に悩む主人公が「足りなかったら嫌だな、二本足しちゃおう」とパスタを多めに茹でてしまうシーンがある。主人公の太る理由を表した端的なシーンだが、それでも「足す」という意識があるぶんまだましだ。私は、一人前つまり平常時よりやや太いが勃起時よりはやや細い陰茎サイズを意識している振りをしながら、無意識下で本来より太い陰茎の、もしかしたら勃起時より太いくらいのパスタをつかみとり、茹であがった「何故か」多いパスタを「やむをえず」食っていた。あくまで一人前しか茹でていないつもりだったので、多くなってしまったのは陰茎サイズを見誤ってしまっただけのミスにすぎない、無意識だから仕方がない、そして茹でてしまったものは食うしかない、と。罪悪感から逃れるために、巨根であろうとしていた。

 

 だが、本当はわかっている。私は巨根ではない。巨根ではないので、我が家のパスタの味はもっと濃くなければならないのだ。

 次回パスタを茹でるときには、きちんと重量を計り、改めて一人前のパスタと陰茎の太さと比べてみるべきか。いや、違う。根本的に間違っている。そもそもパスタと陰茎は比べるべきではない。私はパスタを陰茎から解放してやらないといけない。きちんと一人前が計れるパスタケースを買おう。パスタをパスタとしてグリップしてピックアップしよう。たくさん食べたいというなら、意識的に麺を追加し、ソースも追加し、罪悪感と向き合いながら味の濃いパスタを食べるべきなのだ。そうすることで、私は陰茎の幻影から逃れられ、ようやくパスタと真っ直ぐに向き合うことができるはずだ。

 私とパスタの歴史は、これから始まる。

 

2020年11月 テレワーク中、自宅にて